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蒼に彼女がいることは、凪も知っていた。


特別な理由があったわけではない。

ただ、蒼という人間は昔からそういう人だった。

高校の頃から、彼女がいない期間の方が珍しいくらいで、気づくと誰かと付き合っていて、気づくと別れている。

凪にとってはそれが普通だった。


だから、ある日蒼がふとした調子で「今付き合ってるやついる」と言ったときも、凪は驚かなかった。


「そうなんだ」


ただそれだけ答えただけだった。

蒼はソファに寝転がったままスマホをいじっていて、特に嬉しそうでも、面倒くさそうでもない声で続けた。


「沙希ってやつ。大学違うけど」

「へえ」


凪は台所で味噌汁をかき混ぜながら相槌を打った。

蒼の恋愛の話は、だいたいいつもこんなふうに突然始まって、あっさり終わる。


蒼は凪の部屋のテーブルに置いてあった箸を勝手に取って、まだ出来上がっていないおかずをつまもうとしている。


「まだだよ」

「腹減ってんだよ」


凪は少し笑って、フライパンを揺すった。


「もうすぐできる」


蒼は「はやくしろ」と言いながら、スマホをまた見始める。

その画面に、さっきから何度か同じ名前の通知が表示されているのが、凪の位置からも見えた。


沙希、という名前の横に小さなハートがついている。

それでも凪は特に何も思わなかった。


蒼には蒼の生活があって、その中に恋人がいるのは当然のことだ。

凪はそこに入ろうと思ったことはないし、入れるとも思っていない。


ただ、蒼がこうして夜中に部屋に来て、ご飯を食べて、風呂を使って、少しだけだらだらして帰っていく。

その時間がなくならなければ、それで十分だった。


「なあ」


蒼がふと顔を上げた。


「その味噌汁、具なに」

「豆腐とわかめ」

「肉は?」

「ない」


蒼はため息をついた。


「貧乏くせえ」


凪は肩をすくめて笑った。


「仕方ないよ」


本当は、少し前まではもう少し余裕があった。

けれど最近は、大学の先輩に頼まれた飲み会の立て替えが続いたり、蒼にお金を貸したりしているうちに、財布の中身はすぐ軽くなってしまう。


それでも、凪はあまり困っている感じはしなかった。

必要ならバイトを増やせばいいだけの話だし、誰かが頼ってくれるのは、悪いことではないと思っている。


蒼がスマホをテーブルに放り出した。

画面が一瞬こちらを向く。

そこには、沙希からのメッセージが表示されていた。


『今どこ?』


凪は視線をそらした。

蒼はそれを見て、特に慌てる様子もなくスマホを裏返す。


「めんどくせ」


ぼそっとそう言って、またソファに沈み込んだ。


凪は味噌汁をよそいながら、なんとなく尋ねた。


「会わないの?」

「今日はいい」


蒼は天井を見ながら答える。


「なんで」

「なんかだるい」


凪は「そっか」と言っただけだった。


少しして、料理をテーブルに並べる。

蒼はすぐに箸を取って食べ始めた。


「うま」


その一言を聞くと、凪はやっぱり少しだけ嬉しくなる。


蒼は食べながら、ふと思い出したように言った。


「そういえばさ」

「ん?」

「沙希に、お前の話した」


凪は味噌汁の椀を持つ手を止めた。


「俺の?」

「うん」


蒼は特に意味のない調子で言う。


「犬みたいなやついるって」


凪は少し考えて、それから笑った。


「またそれ?」

「だってそうじゃん」


蒼は平然としている。


「何しても怒んねえし」


凪は味噌汁を一口飲んだ。

温かい。


「まあ」


否定する理由もない。

蒼は続ける。


「沙希、笑ってた」

「そっか」


凪はそれだけ答えた。

蒼が誰かに自分の話をすること自体、あまりなかったから、むしろ少し不思議なくらいだった。


蒼は食事を続けながら、何でもないことのように言う。


「今度来るかも」

「え?」

「ここ」


凪は一瞬だけ驚いた。


「沙希さんが?」

「うん」


蒼は気にしていない様子でご飯を口に運ぶ。


「見たいって」

「何を?」


蒼は笑った。


「犬」


凪は少しだけ黙った。

それから、また味噌汁を飲んだ。


「そっか」


それだけ言った。

凪の声は、いつもと同じくらい静かだった。

捨てても戻る犬の恋

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