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猫塚ルイ

教室は、いつも通りだった。 黒板に残ったチョークの粉。 誰かが途中でやめた数式。 窓際の席に置かれたままの水筒。 昼休みのざわめきが、そのまま乾いて貼りついたような空気。 何も、変わっていない。 それでも柊は、入口で一度、足を止めた。
——ここに、いた。 確かに。 目で見たわけじゃない。 触れたわけでもない。 けれど、確かに「いた」としか言いようのない重さが、教室の奥に沈んでいる。 誰もその方向を見ない。 見ないことが、最初から決まっていたみたいに。 「遅い」 声が飛ぶ。 軽い調子。 いつも通りの、何も含んでいない声。
顔を上げると、笑っている。 ——あの日と、同じ顔で。 「なに、ぼーっとしてんの」 別のやつが続く。 机を軽く蹴る音。 乾いた笑い。 そのどれもが、「普通」だった。 だから、余計に歪んでいる。 柊は席に向かう。 椅子を引く音が、やけに大きく響いた。 一瞬だけ、誰かがこちらを見た。 すぐに逸らされる。 ——見ていない、という合図。 「なあ」
不意に、前の席の男子が振り返る。 「昨日のやつ、見た?」 「どれ」 「動画。あれ」 「ああ、見た見た」 会話が、続く。 何の動画か、柊には分からない。 けれど、全員が分かっている。 その前提で、笑いが起きる。 「やばかったよな」 「普通に笑ったわ」 「お前ああいうの好きだろ」 「いや、さすがにあれは引くって」 笑いながら、引くと言う。 その矛盾を、誰も指摘しない。 柊は、聞いている。 聞いているだけで、分かる。 ——あれのことじゃない。
けれど、同じだ。 言葉にしないまま共有されるもの。 名前を与えないことで、存在を曖昧にするもの。 その仕組みが、まったく同じだ。 「柊」 呼ばれる。 びくり、と肩が揺れた。 「お前は?」 笑いながら、聞かれる。 「見た?」 一瞬、間が空く。 教室の空気が、ほんの少しだけ静まる。 答えを待っているわけじゃない。 試している。 ——どっち側か。 柊は口を開く。 「……見てない」 その言葉は、驚くほど簡単に出た。 一拍。
それから、空気が戻る。 「だよな」 「あいつそういうの見なさそう」 「真面目かよ」 笑いが広がる。 軽く。 何もなかったみたいに。 けれど、その瞬間。 教室の奥で、何かが一段階、沈んだ。 ——また、一つ。 積み重なる。 見ていない、という証言が。 誰も嘘はついていない。 本当に、見ていないのだ。 「なあ、てかさ」 別の話題に移る。 「今日の小テスト、やばくね」 「あー無理無理、全然やってない」 「終わったわ」 「どうせあいつもできねえだろ」 「あいつ?」 「ほら、あの——」
名前が、出かけて。 止まる。 一瞬の空白。 誰かが笑う。 「あー、誰だっけ」 「知らね」 「まあいいや」 そのまま、流れる。 自然に。 最初から存在しなかったみたいに。 柊は、黒板を見る。 数式の横に、小さく残った消し跡。 何かを書いて、途中で消した跡。 完全には消えていない。 光の角度で、うっすらと浮かぶ。 ——名前だ。 たぶん。 いや、確信はない。 けれど、そうとしか思えない形だった。 誰も、それに触れない。 誰も、そこを見ない。 「先生来た」 誰かが言う。 扉が開く。 いつも通りの足音。 いつも通りの出席簿。 「じゃあ、出席取るぞー」 何の違和感もない声。 名前が呼ばれていく。 一人ずつ。 正確に。 機械みたいに。 柊の番が来る。 「柊」 「……はい」 短く答える。 次。 また次。 途切れない。 抜けない。
——欠席者は、一人もいない。 全員出席。 それが、この教室の「正しい記録」。 呼ばれなかった名前は、最初から存在しないことになる。 柊は、視線を落とす。 机の表面。 細かい傷。 誰かが彫った落書き。 その中に、一つだけ。 消しかけの文字。 途中で止まった、線。 ——「ひ」 そこまでで終わっている。 その先は、削り取られている。 指でなぞる。 ざらついた感触。 消そうとして、消しきれなかった痕跡。 「おい」 小さく声がかかる。 顔を上げる。 隣のやつが、軽く顎で示す。 「前見ろって」 笑っている。 優しくも、冷たくもない顔。 ただ、「普通」の顔。 柊は、前を向く。 黒板。 教師。 チョークの音。 すべてが、正しい。 すべてが、整っている。 だからこそ、分かる。 ——ここには、何かがある。 全員が正しいと言った結果、残ったもの。 誰も嘘をついていないのに、消えたもの。 見ていないという事実が、積み重なって。 確かに存在していたものを、なかったことにする。 その中心に、この教室がある。 逃げ場はない。 記録にも残らない。 証言も一致している。 それでも。 柊は、もう一度だけ、あの跡を見る。 消しきれなかった線。 名前の、残骸。 そして、初めて思う。 ——これは、まだ終わっていない。 消えていない。 ただ、「いなかったこと」にされているだけだ。 その事実だけが、静かに、教室の底に沈んでいた。