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KOKUGA
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✴︎ 妃翔
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#怪異
イキリ火の玉
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教室は、いつも通りだった。 黒板に残ったチョークの粉。 誰かが途中でやめた数式。 窓際の席に置かれたままの水筒。 昼休みのざわめきが、そのまま乾いて貼りついたような空気。 何も、変わっていない。 それでも柊は、入口で一度、足を止めた。
——ここに、いた。 確かに。 目で見たわけじゃない。 触れたわけでもない。 けれど、確かに「いた」としか言いようのない重さが、教室の奥に沈んでいる。 誰もその方向を見ない。 見ないことが、最初から決まっていたみたいに。 「遅い」 声が飛ぶ。 軽い調子。 いつも通りの、何も含んでいない声。
顔を上げると、笑っている。 ——あの日と、同じ顔で。 「なに、ぼーっとしてんの」 別のやつが続く。 机を軽く蹴る音。 乾いた笑い。 そのどれもが、「普通」だった。 だから、余計に歪んでいる。 柊は席に向かう。 椅子を引く音が、やけに大きく響いた。 一瞬だけ、誰かがこちらを見た。 すぐに逸らされる。 ——見ていない、という合図。 「なあ」
不意に、前の席の男子が振り返る。 「昨日のやつ、見た?」 「どれ」 「動画。あれ」 「ああ、見た見た」 会話が、続く。 何の動画か、柊には分からない。 けれど、全員が分かっている。 その前提で、笑いが起きる。 「やばかったよな」 「普通に笑ったわ」 「お前ああいうの好きだろ」 「いや、さすがにあれは引くって」 笑いながら、引くと言う。 その矛盾を、誰も指摘しない。 柊は、聞いている。 聞いているだけで、分かる。 ——あれのことじゃない。
けれど、同じだ。 言葉にしないまま共有されるもの。 名前を与えないことで、存在を曖昧にするもの。 その仕組みが、まったく同じだ。 「柊」 呼ばれる。 びくり、と肩が揺れた。 「お前は?」 笑いながら、聞かれる。 「見た?」 一瞬、間が空く。 教室の空気が、ほんの少しだけ静まる。 答えを待っているわけじゃない。 試している。 ——どっち側か。 柊は口を開く。 「……見てない」 その言葉は、驚くほど簡単に出た。 一拍。
それから、空気が戻る。 「だよな」 「あいつそういうの見なさそう」 「真面目かよ」 笑いが広がる。 軽く。 何もなかったみたいに。 けれど、その瞬間。 教室の奥で、何かが一段階、沈んだ。 ——また、一つ。 積み重なる。 見ていない、という証言が。 誰も嘘はついていない。 本当に、見ていないのだ。 「なあ、てかさ」 別の話題に移る。 「今日の小テスト、やばくね」 「あー無理無理、全然やってない」 「終わったわ」 「どうせあいつもできねえだろ」 「あいつ?」 「ほら、あの——」
名前が、出かけて。 止まる。 一瞬の空白。 誰かが笑う。 「あー、誰だっけ」 「知らね」 「まあいいや」 そのまま、流れる。 自然に。 最初から存在しなかったみたいに。 柊は、黒板を見る。 数式の横に、小さく残った消し跡。 何かを書いて、途中で消した跡。 完全には消えていない。 光の角度で、うっすらと浮かぶ。 ——名前だ。 たぶん。 いや、確信はない。 けれど、そうとしか思えない形だった。 誰も、それに触れない。 誰も、そこを見ない。 「先生来た」 誰かが言う。 扉が開く。 いつも通りの足音。 いつも通りの出席簿。 「じゃあ、出席取るぞー」 何の違和感もない声。 名前が呼ばれていく。 一人ずつ。 正確に。 機械みたいに。 柊の番が来る。 「柊」 「……はい」 短く答える。 次。 また次。 途切れない。 抜けない。
——欠席者は、一人もいない。 全員出席。 それが、この教室の「正しい記録」。 呼ばれなかった名前は、最初から存在しないことになる。 柊は、視線を落とす。 机の表面。 細かい傷。 誰かが彫った落書き。 その中に、一つだけ。 消しかけの文字。 途中で止まった、線。 ——「ひ」 そこまでで終わっている。 その先は、削り取られている。 指でなぞる。 ざらついた感触。 消そうとして、消しきれなかった痕跡。 「おい」 小さく声がかかる。 顔を上げる。 隣のやつが、軽く顎で示す。 「前見ろって」 笑っている。 優しくも、冷たくもない顔。 ただ、「普通」の顔。 柊は、前を向く。 黒板。 教師。 チョークの音。 すべてが、正しい。 すべてが、整っている。 だからこそ、分かる。 ——ここには、何かがある。 全員が正しいと言った結果、残ったもの。 誰も嘘をついていないのに、消えたもの。 見ていないという事実が、積み重なって。 確かに存在していたものを、なかったことにする。 その中心に、この教室がある。 逃げ場はない。 記録にも残らない。 証言も一致している。 それでも。 柊は、もう一度だけ、あの跡を見る。 消しきれなかった線。 名前の、残骸。 そして、初めて思う。 ——これは、まだ終わっていない。 消えていない。 ただ、「いなかったこと」にされているだけだ。 その事実だけが、静かに、教室の底に沈んでいた。